孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

笑うヤツ笑われるヤツ

 誰かの発案や提案を聞いた時、嘲笑しようとしたり、論理の穴を指摘しミスをあげつらったりすることが脊髄反射のようになってしまっている輩はどの時代、どの世界、どの組織にもいる。臆面もなく「できない理由」をしたり顔であげつらう、自分では思いつかなかった新しいことを嫌う奴らだ。
 思えば阿波踊りの歌ではないが、この世は笑うヤツと笑われるヤツに二分されるのだと思う。それは他人をバカにするヤツと、バカにされてもそれより大切なものがあるのだと思っているヤツが常に存在するいう意味でもある。


 ところで誰かの行動をやめてほしいと願ったり、またやめさせようとする行為の多くは、それをされると自分の能力(ヤル気、向上心、実績、勇気、正しさ・・・等)の無さが露呈する場合である。自主的に掃除や片付けをする新人や、会議で質問や意見を言ったりする後輩、また自分の頭で考え提案する同僚が存在すると、「そんなことをされたらこっちがサボってることがバレるだろ!」というようなことを言う人種が恐れるものは、実はサボっていることがバレることではなく、無能であることが露呈することだ。
 面白いのは他人を笑うヤツほど、自分は絶対笑われたくないと思っている事実だ。他人から笑われたくないから人生においてトライというものは基本的にしない。失敗したら笑われるからだ。常に努力と挑戦をしている人とは対極の生き方をしていながら、それを誤魔化すために、自分が笑える他人を常に探している。他人のチャレンジを見たらヤバいと思い、その考えが拙いものであることを間接的に主張するのが、笑うという行動だ。


 しかしどんなに優れた企画やでも、初期段階では誤りや部分的な矛盾はある。初めて試す事柄とはそうしたもので、実行していく過程で修正されればいいのである。提案されたことが偉業であり、その精神を生かすことが答えである。


中島みゆきさんの『ファイト』より。

・・・(中略)
ファイト!
闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!
冷たい水の中を
震えながら登ってゆけ


 人を笑うくらいなら笑われる方がマシだと思うが、振り返ればこれまでに何度も、笑われまいとして意見を主張しなかった過去を思い出して恥ずかしい。