孤高の専門学校校長

感じるままに言いたい放題

できなかった精霊舟

 20歳の頃に若造の私が、結婚というものが頭をかすめた人がいた。結婚することの意味は知らなかったが、とにかくこの人とするのかなぁ? みたいな淡い思いを抱いたのは本当だ。それほど若かった。彼女は可愛いくて、彼女の前では格好悪いところは見せたくなかった。

 一人暮らしのアパートには風呂もなく、トイレさえ共同だったが、しばしば彼女は遊びに来た。笑えるくらい金はなく、本当に何もなかったが、自分でもママゴトみたいだと感じながら私たちは毎日楽しかった。

 ある日私は強烈な嘔吐と下痢、そして発熱に見舞われた。もう立っていることも辛い程だったが、馬鹿な私は救急車を呼ぶという頭もなく、正直このまま寝たら死ぬんじゃないかと思っていたそんな中、タイミング良く彼女があらわれたのだ。『◯ちゃん!!』と私を呼ぶその声が耳元に響いた。私は銭湯に行くときの洗面器を抱えて床に転がっていた。彼女は私の顔の前にある洗面器を持って流しに行った。吐物を処理してもらうのは申し訳ないとも思いながら、私には『ゴメンなぁ』と力なく発するのが精いっぱいだった。

 洗面器を洗ってくれるものと思っていた私は、流しにいる彼女を見て驚いた。なんと彼女は洗面器の吐物の中に両手を突っ込んでいる。『何してんねん! 汚いからやめとけ!!』と私は思わずそう言った。しかし彼女はやめない。そして・・・『ああ、◯ちゃん、昨日たこ焼き食べたやろ?』と言うのである。『たこがアタッてんわ、きっと・・・』。

 この出来事が、この女性との結婚生活を考え始めたきっかけだったと思う。

 しかし世の中というものは上手くいかない。些細なことで喧嘩をした私たちは、別れてはいなかったがしばらく会っていない日が続いていた。そんな中、彼女は交通事故で短い生涯を閉じたのである。即死とのことだった。苦しまなかったことがせめてもの救いだったのかもしれない。共通の友人から報せを受けた私は、罪の意識と後悔で色んなことがなんだかどうでもよくなったのを覚えている。呆然というのはこんな時のことをいうのだろう。

 復活できるまでにどれくらいかかったかは覚えていないが、自分の生活にようやく少しずつ目を向けられるようになった私は、郷里のオジジに、この盆に帰省するので極々小さなものでいいから精霊流しに使う精霊舟を作ってくれないかと涙ながらに打診した。オジジはしばらく考えていたが、『そん子はおがえ(私の家)には来んと。わがえ(実家)に行っとたい。いらんこっやせん方がよか』と静かに言った。
 その年帰省した私は、送り盆の桟橋で行われる精霊流しのため近所のそれぞれの家で作った大小の精霊舟を前に、初めて声をあげて泣いた。